殷の時代に出来あがった六十干支の暦は、年と日にちのみに割り振られ、月は1年のうちの時を知るためにのみ存在したようであります。
古代、年の始まりをどこにするか、紆余曲折があったと思われます。
そして王朝交代の政治的要因で、秦王朝の「せんぎょく暦」から清王朝の「時憲暦」まで、暦が49を数えることになるのであります。

中国の暦は古来、太陰太陽暦が使われていました。太陰とは月の満ち欠けで月の暦を数える方法です。

月の満ち欠け(朔望)の長さは

29,53059日(29日と12時間44分2,9秒)

約29,5日です。これは月が地球の周りを一周する一公転の長さであります。

太陽暦は一太陽年といわれ、地球が太陽の周りを一周する長さで、太陽の陽射しが一番短い冬至から次の冬至までの日にちで計算されました。その長さは、

365,2422日(365日と5時間48分46秒)

で、約365日と4分の1日です。

1年を12ヶ月にするのは、1年に約12回、月が満ち欠けするためです。
月の動きは1年12ヶ月ですが、1太陽年に対して11日短いので1年を13ヶ月にする年が考え出されました。それが閏月です。

このような月の満ち欠けによる1年の暦は、実際の季節感とのズレが発生します。そこで季節を知る手段が必要になり、1太陽年を均等24等分して太陽の位置を知り、それぞれに名前をつけました。
それが24節季であります。

24節季は冬至(12月22日ごろ)から始まり、小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪であります。1年360度を角度にすると、1節季は15度で2節季が30度になります。

冬至は中国の暦の原点で、冬至における太陽の観測を基として二十四節季、一太陽年を計っています。

2節季を1月にして12ヶ月とする暦が、後世に作られた干支暦の、月の起源となります。そして、陰暦の月の位置に依存しないで、太陽の位置による月の干支暦で運命が証明されるようになったことで、月の暦は太陰暦から離れました。

現在の干支暦の暦は太陽暦が基準であります。
太陽の位置と、太陽を通して宇宙から来る気の動きを読む暦であるといえます。
そして、太陰(月)の1年12ヶ月は、太陽暦12ヶ月の、証明の数としてのみ存在することになります。

こうして、年と日にちしかなかった干支暦に、月の干支がそろい、干支暦としての暦が機能するようになりました。

中国古代の暦で「六暦」の一つ「殷暦」と殷の時代の「殷暦」はちがいます。殷の時代の暦は亀の甲羅に刻まれた甲骨文の発見によるもので「甲骨文暦」、「殷墟暦」とつけている学者さんもいらっしゃいます。

参考文献:アジアの暦
出版社:大修館書店 参考
著者:岡田芳郎

「甲骨文暦」は年と日にちに干支を当てはめ、月は30日の大月と29日の小月の繰り返しとしていました。各月は上旬・中旬・下旬に分かれていて、各旬の初日は甲の日となり、10日に1回、祖先の御霊を祭る日としていたようです。1年は355日、12ヶ月で時々13ヶ月の年を入れて使われていたようです。
年初は冬至の次の月で、十干で日を数え、これに十二支を加えて六十干支を用いていました。
殷の時代の日にちは、月の何日目ではなく干支の何の日、という形で日にちを表していました。殷の時代は年と日にちにかんしては『気』で読む暦であったといえます。そして、年の始まりは冬至の翌月でありました。月は正月、二月、三月と数え、十二支は使われていませんでした。

殷の時代は『気を読む』ための干支の暦であったわけですが、『気』は『干と支』で『天と地』の気を読むわけです。そして、気の影響が及ぼす時間の基準は太陽の動きであります。年支は木星の位置、月支は太陽の位置、日支は地球の自転、そこに、宇宙空間の『気』、『天干』を加えるのが干支の暦です。

六十干支

(1~10)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉

(11~20)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
戌 亥 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未

(21~30)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
申 酉 戌 亥 子 丑 寅 卯 辰 巳

(31~40)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
午 未 申 酉 戌 亥 子 丑 寅 卯

(41~50)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥 子 丑

(51~60)
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

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