年支は木星の位置を表します。それは木星の公転周期が約12年(11.86年)であることです。
木星が黄道(太陽系の星が移動する道筋)のどの位置にあるかで年を刻みました。
そこで、この木星のことを古代では「歳星」と呼んでその運行に注視したのです。
この木星の位置で年を見ることを木星紀年法といいます。
暦は古来、冬至を基準に作成されました。
そこで冬至の月の歳星(木星)の位置で、十二支の何年と決めたのです。
(※ 世界の古代遺跡では日時計の冬至が重要な年の分岐点になっていたことからも把握できます。)

ここにはすでに年の干支が回っていたことが解ります。

木星(歳星)が子の方位にあって、甲子朔旦冬至と重なる時が、本当の暦元という可能性もありますが、それより月の新月が重視されていて、冬至の日における太陽→月→地球と一直線になる日が重要であったということであります。
特に、冬至における皆既日食は、もっと重要な日であったろうと想定されます。

これらから考えられることは、年干支は木星と太陽の影響下にあり、月干支は月と太陽の影響下にあり、日干支は太陽と月と地球の自転の影響下で現れる『気』であるということになります。

実は、古代の王様は自分が使う暦と国民が使う暦を分けて使っていました。国民を統治するための暦と王様が使う暦は別々にあったのです。

中国四書五経の一つ『春秋』の記述に次の文章があって、解釈されたものがあります。

「隹王○年」という書式と「唯?正二月初吉乙丑」という書式があって、王の暦と諸侯の暦があったということであります。

春秋公羊傳にも『隱公元年、春王正月』についての文章があります。

春秋公羊傳

公羊傳·隱公

隱公(經一·一)元年

元年春,王正月。

(傳)元年者何?君之始年也。春者何?歳之始也。王者孰謂?謂文王也。

元年とは何ぞや、君の始年なり。春とは何ぞや、歳の始なり。王とは孰れの謂か、文王を謂ふなり。

元年は周の文王(このときの周建国の大功臣が太公望です。)をさします。春は歳の始めのことです。
周の文王が定めた歳の始め【冬至】を含む月を王の正月とする。
と書かれているのです。

周王朝の正月は建子の月ですので、冬至を含む月であるということになります。

“王にとっての春、歳の始めは周王朝の正月、冬至である。”

ということであります。

そして、このような王の暦と諸侯の暦の異なる暦は、後世まで使われていました。
それを証明する文献が、朝鮮の「大明会典」(1510年)に書かれています。

朝鮮の歴代王朝は中国の正朔を奉じ、中国の年号と暦法を使用した。毎年頒下された暦を、どのような手順で国内に頒布したのか、詳しいことは知らないが「大明会典」(1510年)によって、ある程度のことは理解できる。
『大明会典』の巻233欽天監の条に「朝貢している国ごとに、王暦一本と民暦十本を給与する。ただし、朝鮮国には王暦一本と民暦百本とする」という意味の記事がある。すなわち、朝鮮国には毎年国王用を一本と、諸官司等に配布する一般用の暦百本を給与したのである。

(参考文献:アジアの暦より
出版社:大修館書店 参考   著者:岡田芳郎)

ここに、朝鮮国に中国から暦が送られ、王様用と一般国民用の暦が送られたと書かれています。
このことは、王様専用の暦は歴史上1510年までは確実に存在したことが文献で解ります。

これらから解ることは、
“王は冬至を年の境目とした暦を使用し、一般民衆には立春を年の境目とした暦を使わせていた。”
ということであります。

自然法算命学は『甲子朔旦冬至』を暦元とする思想、および『隱公元年、春王正月』を文献的根拠とし、冬至を新しい年の始まりとした干支暦です。

参考文献:アジアの暦
出版社:大修館書店 参考
著者:岡田芳郎

参考文献:藪内清編『中国の科学』中央公論社

参考資料:
平勢隆郎『中國古代紀年の研究――天文と暦の檢討から――』(東京大学東洋文化研究所、汲古書院、1996年)
平勢隆郎「戰國中期より遡上した『春秋』三傳」(『史料批判研究』4:2000年)