論文では、冬至年初を旨とする「王暦」による考え方で命式を鑑定する「冬至説」が本来のあり方であると価値判断できると結論付けられています。

首都大学東京 人文科学研究科 大野 広之 先生の論文より引用させていただきました。

歳首選定及び満漢朝三体言語資料をめぐって

0.諸言

算命学は中国古代の陰陽五行思想成立から自然現象の変化を基軸として天下や人間の運命を論じたものであり、現代では四柱推命と並んで個人の宿
命・運命を鑑定する占技として知られている。

その際に、年干支については2 月 4 日の立春から新年として命式を算出する「立春説」が一般的であるが、市来(2006)によれば、1 月生まれの命式を実際に鑑定するときには立春説で鑑定するとさまざまな齟齬を来すこととなり、理解に困難が生じると述べている。

そうした経験から、市来は冬至を年の変わり目と考えて、冬至の日(12 月 22 日または 23 日)から新年ととらえて鑑定する手法、即ち「冬至説」
を提唱するに至っている。注釈(1

そこで本稿では、市来が「冬至説」を提唱するに至った暦術思考及び満洲語・漢語・朝鮮語による言語資料記述についてさらに若干の考察を試みたい。

1.古代中国暦術思考

算命学では人の生年月日(事物においては新規出発の年月日)を十干十二支に置き換えて鑑定をすることから、暦術思考は算命学の根本思想を支える重要な思考法である。

髙尾(1981)では次のように述べている。

――年干を北方に配置しているのは、年の初めおよび年の切り変わり時点を冬至に求めているわけで、年における宇宙空間の現象は、北方から始まると
考えているわけであります。

(髙尾義政『原典算命学大系』第二巻,p39)人文学報第 514 号(第 12 分冊)

古代中国における空間認識を十干、そして時間認識を十二支にて各々表示する根本思想は陰陽五行説に求められるが、その際に時間認識については、
元来不可視な存在であるものを、日月星辰の運行などから算出して図式化したとされる。

また、それに依拠した暦術思考として体系化したものが暦法である。中国では民国元年(1912)に至るまで太陰太陽暦が使用されていたこ
とは夙に知られているところであるが、歳首をいつに設定するかについては時代により変遷があった。

藪内(1943)によれば、春秋時代前半までは暦法が確立されておらず、春秋時代中葉(魯の文王宣王時代)に歳首を「周正(冬至正月)」とする、とある。注釈2)しかしながら完全に暦法として確立したものではなく、前漢武帝の暦法制定(立春を歳首とする)までは、閏月が一定の周期で置けていないことを考慮に入れると、いわば「暦術」として発展段階にあったと考える方がよいであろう。

また、古代中国における暦術思考は、王朝支配者が被支配者に対する統治の方法論としての側面が強くはたらいている。

すなわち、王のための暦術、民を均しく治めるための暦術といった複線思考に特徴がある。つまり、「王暦」注釈3)と「民暦」注釈4)の要素が併存していたとみるということである。「王暦」は統治者たる皇帝自らが天を祭ることにより国の安寧を願うために存在し、「民暦」は被支配者たる農耕に従事する民の五穀豊穣を祈願するために存在したと理解すると、算命学本来の存在意義、すなわち支配者の統治が恙なく遂行できるよう秘匿され、一子相伝を旨とした伝承による性格を有していたことと相俟って「王暦」による暦術思考に依拠した考察には全きを得る価値判断であるといえるのではないかと考える。

2.「王暦」の歳首選定

一年を計測するにあたり、どのような日を歳首とするかについては言語資料で確認していきたい。

まずは、『春秋公羊傳』から検討していくことにする。

――〔公羊傳・隠公元年〕元年春王正月。元年者何。君之始年也。春者何。歳之始也。王者孰謂。謂文王也。曷爲先言王而後言正月。王正月也。(下線筆者)

上掲本文「王正月也」について、何休は「周以斗建子之月爲正夜半爲朔法。」と注しており、さらに徐彦の疏では、「凡草物皆十一月動萌而赤。(中略)周以至動。

(中略)至動冬日至物始動也。(以下略)」とある。つまり、北斗七星の柄杓の柄が「子」の方向、つまり真北を向いた日に、すなわち太陰暦十一
月の「冬日至物」、つまり「冬至」の日に周代では新たな時間を計測し始めることとなった、と釈義がつけられている。

これに対して、『春秋穀梁傳』では次のような記述がみられる。

――〔穀梁傳・隠公元年〕元年春王正月。

上掲本文「元年春王正月」について、范寧の集解では「隠公之始年周王之正月也。」とあり、楊子勛の疏ではさらに「魯隠所用之歴即周正。」とある。5)これにより、藪内の指摘した「周正」は冬至年初による「王暦」であると確認できる。

また、『漢魏叢書』所収の『春秋繁露』には、次のような記述がみられる。

――〔春秋繁露 巻十二 陰陽終始題四十八〕天之道。終而後始。故北方者天之所終始也。陰陽之所別合也。冬至之後。陰俛而西入。陽仰而東出。出入之處常相反也。

陰陽五行思想による冬至の位置づけは一陽来復の兆しであり、方角でいえば北に位置するところで天の変化が陰から陽に推移するということであるこ
とから、氣の伸張を観察するには絶好の時機と考えられたのではないか。

3.冬至祭天の儀式

人文学報第 514 号(第 12 分冊)

国家や人民の安寧を願う皇帝にとって、宗廟社稷に祈願することは最も重要な任務であった。

わけても冬至祭天の儀式を整えることについては、前に述べたように「王暦」による歳首の日にあたることから明清時期には盛大な祭天の儀式が行われていたのである。『日下舊聞考』によれば、次のような記述がみられる。注釈6)

――〔日下舊聞考 巻五十七 城市 外城南城一〕永樂十八年,北京天地壇成,毎歳合祀。(中略)嘉靖九年,勅建圜丘於大祀殿之南,毎冬至祀天,以大明、夜明、星辰、雲、雨、風、雷従祀。(中略)是冬十一月,上皇天上帝尊號。(中略)嘉靖十三年二月奉旨,圜丘、方澤今後稱天壇、地壇。

明清時期の皇帝は、冬至の日に天壇に出向いて祭天の儀式を行っていた。

殊に清朝乾隆年間には、乾隆帝自ら冬至祭天に合わせて詩文をよく作り、祭天の意義を深めていたと考えられる。『大清會典』を引用する形で前に掲げた『日下舊聞考』では次のように続ける。

――〔日下舊聞考 巻五十七 城市 外城南城一〕歳以冬日至祀皇天上帝,奉太祖高皇帝、太宗文皇帝、世祖章皇帝、聖祖仁皇帝、世宗憲皇帝配,以大明、夜明、星辰、雲、雨、風、雷従祀。(中略)先祀一日,皇帝御龍袍袞服,乗禮輿出宮,至太和門階下降輿乗輦輦,入壇西門,至昭亨門外降輦,由左門入,詣皇穹宇,於上帝、列聖前上香,行三跪九拝禮。(中略)祀日,日出前七刻,皇帝御祭服乗輦,至外壝南門外神路右降輦,由外壝南左門入内壝南左門,陞午階,至二成黄幄次。皇帝就拜位立,廼燔柴迎帝神,樂奏始平之章。皇帝詣第一成上帝位前跪上香,皇帝復位,行三跪九拝禮。(中略)禮成,皇帝由外壝南左門出,至昭亨門外陞禮輿,大駕鹵簿前導,導迎樂作,奏佑平之章,皇帝回鑾還宮。

冬至祭天にあたっては、前日より天壇に入って入念な準備を行い、当日は未明より精緻を極めた儀式を行っていたことがうかがえる。

さらに、乾隆帝は冬至祭天にあたって頻繁に「冬至南郊」の詩を作っているが、その表現をめぐる考察はここでは立ち入らない。

冬至祭天の儀式と並んで、立春にも人民の五穀豊穣祈願を旨とした祭天の儀式を行っているが、『日下舊聞考』の記述を見る限りは冬至祭天にかかる記述の分量を上回るものではない。

4.朝鮮資料の検討

明代には、朝鮮からの冬至使が北京に派遣されていた記録がある。松浦(2015)によれば、朝鮮の明に対する朝貢は琉球や越南よりも年四回という
頻繁な往来が認められる。

その中の一つが冬至使であり、中国側史料では『大明會典』、『大清會典』に記載がみられ、朝鮮側史料では陸続と刊行された「燕行録」や『同文彙考』にみることができる。注釈7)

朝鮮では高麗から李氏朝鮮にかけて、元・明・清を非常に重要視していたのはよく知られている史実であるが、そうした考えの基層には、北方の方が高い文明・文化の地と捉えていたからだと小倉(2017)は指摘する。注釈8)

小倉によれば、朝鮮は伝統的に中国を自国よりも北方に位置づけた観念的な思考があるとする。

北方からの文化の波を受けてこそ朝鮮は高い文化を享受できる国であるということから、「王暦」を重要視する朝鮮にとっては冬至祭天の儀式に使節を派遣するというのは充実な中華世界の伝承という意識を生み出す。

それが朝鮮後期には老論派の大儒・宋時烈による「朝鮮はすなわち中華=小中華」という図式にまで昇華される。注釈9)

こうした激烈な中華志向は朝鮮思想史にままみられる特徴であるが、そこに通底する儀式で記憶に新しいのは、2018 年 2 月の平昌五輪開会式のパフォーマンスである。

陰陽五行思想を基層としてその上に朝鮮文化を絡めた演出であったが、古代中国伝統思想を忠実に体現している点は刮目に値するであろう。

また、北方からの文化流入という朝鮮半島の方向感覚を象徴する言語資料としては、「老乞大」の存在が夙に知られている。高麗、李氏朝鮮にかけて、北京など中国北方に商売で出かける朝鮮人のための中国語会話テキストとして現在まで精緻な研究がみられるが、その中で、北京滞在を終えて朝鮮に帰国する日の吉凶を占うという内容がある。金文京他(2002)の訳注によれば、あくまで会話の記述が正しいと仮定して登場人物の生年を特定しようと試みている行があるが、算命学の占技により筆者が鑑定を行ったところ、年支と大運との矛盾が生じており、正確な生年月日は算出できなかった。

試みに、記載された言語資料から算出の過程を掲出しておく。

なお、「老乞大」テキストは新本系に拠った。注釈10)

――〔重刊老乞大諺解〕你說生年月日時來。我是屬牛的。今年四十歳。是七月十七日寅時生的。

上掲の「我」は丑年生まれで 40 歳。七月即ち未月の生まれであるところまでは理解できるが、「十七日」はこれだけだと日干支は算出不可能である。しかしながら、この文中にでてくる「五虎先生」の見立てによる記述でさらに考察を加えることは可能である。

――〔重刊老乞大諺解〕今年交大運丙戌。已後財禄長旺。(中略)寅時往東迎喜神去。

金文京他(2002)の訳注では、40 歳から 50 歳までの大運が「丙戌」であると解釈されていること、『居家必用事類全集』には、「尋喜神方」の項に「甲己寅卯喜、乙庚辰戌強。丙申辛酉上。戊癸巳亥良。丁壬午未好。此是喜神方。」とあることから、算命学で鑑定する干合論の考え方がこの「喜神」に反映されているといえる。

「寅卯」は木性、「甲己」は干合して「戊己」(土性)に変化することから、「木剋土」となるが、「甲己」の干合について、市来によれば、「甲己は干合して腐葉土となる」ことから生命エネルギーに最も富んでいると考えられる。注釈11)さらに、大運「丙戌」の象意について、市来(2008)では「結果的に財をつかみ、名より身を取る本質となっている」ことも相俟って考えると、「老乞大」の性格の一つである商業指南という観点にも合致していることになる。

しかしながら、大運を遡っていくと、10 歳大運が「癸未」となってしまい、生月支の「未」と矛盾が生じてしまうことから、「老乞大」に出てくる人物の生年月日は架空のものとなってしまうのである。

寅時の検討は四柱推命による鑑定ではないので捨象したが、寅の方向は東北東を指すことから、奇門遁甲でみれば北京から陸路にて朝鮮に帰国する方向としては正しい方角となるために、「吉方」として記述されたのではないかと推測する。

明が衰亡して清が興起すると、桑野(2016)によれば、明清王朝交代時期には朝鮮でも一時期北京への使節派遣に躊躇した時期もあったようであるが、結果的には朝貢したために使節派遣は継続された。

そうした時代のコンテクストにあって、漢語のみならず満洲語会話テキストも朝鮮では『清語老乞大』として発刊された。

鄭光(1998)影印による満洲語テキストの当該部分をローマ字転写にて掲げておく。

転写法はメルレンドルフのものに拠る。(日本語訳は拙訳)注釈12)

――〔清語老乞大 巻八 19b〕

  • Muse sain inenggi be sonjombi amasi sembi. (我々はよい日を選んでからという。)
  • Ubade u hū sayan šeng bi. (ここに五虎先生がいる。)
  • Inenggi sonjorogo umesi manga. (日を選び出すのはとても難しい。)
  • Tuttu sonjombume geneki. (故に選び出して行きたい。)
  • Si mini jakūn hergen be tuwa. (あなたは私の八字をみよ。)
  • Sini banjiha aniya biya inenggi erin be ala. (おまえの生まれた年月日時を告げよ。)
  • Bi ihan aniyanggi. (わたしは丑年生まれ。)
  • Ere aniya dehi se oho. (この年、四十歳となった。)
  • Nadan biya juwan nadan i tasha erin de banjiha. (七月十七日の寅時に生まれた。)
  • Sini banjiha erin umesi sain. (おまえの生まれた時はとてもよい。)
  • Semeni eture jeterenggi elgiyen. (ということは衣食豊かである)
  • Mohoro gacilabure te isinarakū bicibe. (暮らしに窮して今豊かに至らなくとも)
  • Damu hafan hergen i usiha akū. (ただ官字の星がない。)
  • Hudashame yabure de sain. (商売していくのによい。)
  • Bi ere ucuri amasi geneki sembi. (わたしはこの機会の後に行きたいという。)
  • Ya inenggi sain.(何日がよい。)
  • Si takasu bi sonjome tuwaki. (おまえちょっと待て。私は選んで占ってみる。)
  • Ere biya orin sunja i tasha erin de.(今月二十五日の寅時に)
  • Dergi baru jurafi geneci amba esi bahambi. (東に向かって行ったならば大いに正しく得る。)
  • Sonjonho basa sunja fun be sinda mimeni facaki.(選んで手間賃五分を置け。各々解散した。)
  • Orin sunja de jurambi.(二十五日に出発する。)

これを見ると、話の筋に変わりはないが、算命学で必要な十干十二支や大運の記述が脱落している。推測するに、朝鮮司譯院では満洲語による干支の
名称について不明だったために脱落させざるを得なかったのではないかと推測する。

小結

ここまでの考察で確認できたことは、冬至を歳首とする中国古代暦術思考に基づく「王暦」の存在により明清時期までは冬至祭天儀式が執り行われた
史実があったこと、また朝鮮から冬至使を北京に派遣して「王暦」を重要視していたことから、域外諸国の中でも最も中国文化に忠実な態度を示していたこと、中国と朝鮮との文化理解の必要から生まれた言語資料の中にも算命学の一端を示す内容が残っていたことである。

前に触れたように、算命学は本来日月星辰の運行による自然現象の理解により天下地上の世界を如何に理解するかという認識から出発して、その天下を司る支配者(王、皇帝)のための学問という位置づけであることから、冬至年初を旨とする「王暦」による考え方で命式を鑑定する「冬至説」が本来のあり方であると価値判断できる。今後は本稿で触れられなかった言語資料についてもさらなる考察を加えていきたいと考える。

  1. 「冬至説」については、市来(2006)p216-235 に詳細な記述があり、12/22~2/3生まれの年干支は新年のものを用いて鑑定すると定義されている。「立春説」は2/4 生まれ以降の年干支については新年を用い、2/3 までのものは旧年を用いる手法で、一般の算命学や四柱推命では「立春説」に従っている。
  2. 藪内(1943)p39-48「三、暦法の発達」参照。
  3. 「王暦」=「冬至説」に基づく暦術思考によって支配者(王、皇帝)が用いる暦。
  4. 「民暦」=「立春説」に基づく暦術思考によって被支配者(庶民、農民)向けの暦。「王暦」「民暦」の用語は『大明會典』に見えるとするが、朝鮮に下賜された『大明會典』の中にあるかどうかは未見である。今後の研究に俟ちたい。
  5. 図版①参照。
    6)『日下舊聞考』(1984)第三冊 p915-932 に詳細な記述がある。なお、山下輝彦・張仕英・田禾『DVD Joyful 中国語』(大学生向け中国語教科書、朝日出版社,2012 年初版)付属 DVD には現代版「祭天表演」の一部が動画として収められている。
  6. 松浦(2015)には『大明會典』の記述を引用して冬至使について記されているが、冬至使に焦点を当てて明朝側と具体的な交流を行ったかは詳らかにされていない。断片的な記述を勘案すると時憲暦を下賜されたこともあることから、「王暦」「民暦」との関連性については今後の研究に俟ちたい。
  7. 小倉(2017)p46 参照。
  8. 小倉(2017)p177 参照。
  9. 10)図版(2)(3)(4)参照。
  10. 市来より干合論については直接伝授による御教示を戴いた。算命学では文献記述の他、髙尾宗家からの口伝によるものもあるという。
  11. 図版(5)(6)(7)(8)⑤~⑧参照。

図版

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参考文献一覧

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